聖ドミニコってどんな人?

生誕の地カレルエガ

スペイン、カスチリア地方。やせた土地、少しばかりのぶどう畑と羊の群れの小さな村カレルエガで聖ドミニコは生まれました。カレルエガは、海抜950メートルの高地に位置し、冬は寒く、夏は太陽をさえぎるものがない…この厳しい風土がドミニコの厳格な性格を形成したのでしょう。今も聖ドミニコの生家にはぶどう酒の蔵と17メートルの物見櫓の塔が残り、当時の面影を伝えています。

 

ドミニコの誕生

母ホアナは聖ドミニコを宿した時、不思議な夢を見ました。その夢は、犬が松明をくわえて世界中を駆けてゆく…実にドミニコ会員は、迷える羊を主人の牧場に連れ戻す犬の役割を果たすことになります。

1171年頃、ドミニコはフェリス デ グスマンを父とし、ホアナ デ アサを母としてこの世に生をうけました。母ホアナは貧しい人々の恩人として今日もなお村の人々に慕われています。後年、兄のアントニオが、ドミニコの生まれた場所として示したところに掘ったという井戸からは、今も飲料に適した水が渾々と湧いています。

 

青年期

ドミニコは6歳か7歳の頃に、おじが主任司祭をつとめる教会で、14、15歳からはパレンシアの大学で勉学を始めました。パレンシアにいる頃、飢饉によって多くの人々が飢えに苦しみました。ドミニコは「人々が飢えて死んでいくとき、死んだ皮の上(羊皮紙の聖書)で勉強していることはできない」といい、自分の持ち物ばかりでなく大切な本まで売って貧しい人々に食物を配りました。

 

カタリ派との出会い

司祭になったドミニコは、オスマの聖堂参事会員となり、1203年デンマークへの旅の途中、南仏のトゥールーズで泊った宿屋でカタリ派と出会うことになります。そこの宿の主人がカタリ派でした。ドミニコは彼と夜を徹して語り合い、彼は正当なキリスト教信仰に立ち戻りました。「誤謬を正すのは真理を解くことによってである」というのがドミニコの確信でした。

 

説教者兄弟会の創立と発展

ある晩、教皇はとても暗示的な夢を見ました。夢の中で倒れそうな教会をある男が支えていました。それはドミニコでした。

その少し前に、教会は新しい修道会はもう認可しない決定をしたばかりでしたが、教皇はドミニコにこそ神が教会を支えるために使わされた使徒であると確信をし、ドミニコが願い出た説教者の会を承認しました。

また、1216年、ドミニコが会の認可を待ってローマの聖ペトロ大聖堂で祈っていたある日のこと、教会の象徴であるペトロとパウロが現れてペトロは杖を、パウロは聖書をドミニコに手渡して言いました。

「行って説教しなさい。神はあなたをこの役務のために選ばれたのだから」

その瞬間ドミニコは兄弟が2人ずつ組になって神のみことばを告げるために世界中に散って行くヴィジョンを見たのでした。

1216年12月22日、ドミニコは待望の認可書を手にしたトゥールーズに帰ったドミニコは建ったばかりの修道院にこれから共に住もうとしていた兄弟たちを散らしました。

「種子は蒔けば実を結ぶが、重ねておけば腐る」

これがドミニコの信念でした。兄弟たちは、パリへ、スペインへ、ローマへと散って行きました。ドミニコも兄弟たち精力的に説教をし、神の教えを宣べ伝えていきました。

 

1221年8月6日の夕刻、ドミニコに死が迫っていました。

それは兄弟達が「神の聖職者たちよ、彼を助けに来てください。主の天使たちよ、急いでください。彼の霊を受け取り、いと高きおん者のみ顔の前に捧げてください」と祈っている時でした。一瞬ドミニコは天に手をあげました。それが最後でした。

 

列聖

厳重にセメントで固めた墓の入り口を金づちで砕くと、棺の小さな穴から馥郁とした芳香が漂いました。その香りはたちまちにして周囲に広がり、一瞬、驚愕のあまり声もなかった兄弟たちは、感激に震えました。

続くミサの中でローランという青年がドミニコの名を呼んで取り次ぎを求めると、不自由だった手足の自由を取り戻しました。

1234年8月5日、ドミニコは聖人の列に加えられました。